Mail
 ナビゲーション リンクのスキップ

今日の出来事

2008年12月8日
帰国、旅順のこと
<2019年12月>
24252627282930
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930311234
 
何とか無事に帰ってきた。
大連の三週間目、四週間目は忙しく、帰国後休む暇も無かったため、更新できなかった。
11/23日、旅順に行くことが出来たので、そのときの事を書こう。

旅順は今でも軍港なので外国人の旅行は制限されていて、東鶏冠山、203高地、水師営の3箇所しか許可されておらず、日本人1人で行くのは難しい。
ホテルにいた旅行会社に聞いてみると、ツアーが用意されており、ガイドさん一人と運転手さんを一人昼食つきで850元ということで、日本円だと現在のレートで12000円ぐらい。
仕事も忙しく、その前日にはかなり飲んで体力的には厳しかったが、この機会を逃すと、もう訪れることが無いかもしれないので行ってみることにした。

まずは東鶏冠山に向かう。
当時は木も無く丸裸の岩山のような所だったそうだが、今では植林がされて普通の山のようになっている。
ガイドさんも学生のころは勤労奉仕で植林に来たそうだ。
当時の要塞の跡が今でも残っていて、壁には至る所に弾痕が生々しく残っている。
壁の色は黄色っぽく、ガイドさんの話では現地には材料が無いので、ロシアから運んできたものを使ったのだそうだ。
日本軍はこの要塞の攻略までに9000人の死傷者を出した。
陥落時にロシア軍のコントラチェンコ少将も戦死し、ロシア兵の中で最も人気の高かったこの将軍の戦死で旅順戦が終わったという人もいる。

次は203高地。
ここも当時は岩山だったようだが、今では植林がされている。
当初日本軍もロシア軍も重要視していなかった場所なので、東鶏冠山のような大規模な工事はされていないが、山頂付近には塹壕跡が残っていた。
写真で見て、少し小高い丘のようなイメージ持っていたのだが、実際に行ってみると、日本軍が攻めかかった斜面は急峻な崖で、しかも標高が高い。
ただ登るのでさえ大変なのだから、苦戦するのも頷ける。
山頂には乃木将軍が建てた爾霊山の碑が今でも残っていた。
日本人の観光客が多く、団体さんもいれば、当時の旅順の重要性を、ガイドさんに熱心に語っているお年を召した方もいた。
観光客向けの店があって、記念に250元(4000円弱)をはたいて日露戦争の写真が載っている本を買う。
帰ってから良く見ると、「歴史群像シリーズ59」と書いてあって、学研の本のパクリであることに気がつく。(笑)
まあ、こういうのも一つの思い出だな。
本物と比べてみるのも一興かもしれない。

この地が戦略上重要だったのは、旅順港が一望に出来るからである。
当時のロシア艦隊は日露戦争開戦当初、太平洋艦隊が旅順に、有名なバルチック艦隊は現在のサンクトペテロブルグにいた。
何れか一方と戦うならば勝機はあるが、合流されると日本の連合艦隊の勝ち目は極めて少なくなる。
艦隊が敗れると、大陸に渡った陸軍の輸送路は完全に絶たれるわけで、日本の敗北は間違いないものになる。
ここを奪取した日本軍は、すぐに弾着観測隊を送り、旅順艦隊を全滅させた。
そのような場所だけあって、景色は抜群によく、旅順港が一望に出来た。
ガイドさんによると、霧がかかって見えない事もあるそうで、9月は殆ど霧だったそうだ。
もう少し港に隣接している場所かと思ったが意外と遠くて、当時の大砲でもこの距離を正確に狙い打つ事が出来たのだと、変なところに感心した。

最後は水師営。
この近くで昼食を取ったが、完全に日本人の口に合わせた中華料理で、普通の店で出しているものとは違ったが、まずまず美味しかった。
水師営はロシアの降伏後、乃木将軍とロシアのステッセル将軍が会見した場所である。
周囲は中国のらしい雑然とした感じの場所だが、ここだけは当時の農村の雰囲気が残っている。
棗の木の近くで撮影した記念写真が有名だが、当時の棗の木は残っておらず、今のは三代目なのだそうだ。
水師営の見学後帰途につく。

旅順での戦死者は、日本軍15400人、ロシア軍2~3000人、戦傷者は日本軍45000人、ロシア軍18000人、どちらが勝ったのかわからない数字だが、亡くなった日本人とロシア人、それに中国人も巻き添えになって多くの人が亡くなったり傷ついたりしているはずだ。
亡くなった全ての方のご冥福と、彼の地が「戦略上重要な場所」ではなく、ただの見晴らしの良い丘であり続けることを祈らずにはいられない。